2022.03.24

日本の雷研究

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雷が電気であるということが明らかになったのは18世紀半ばです。この頃、日本の雷に関する研究はどのような状態だったのでしょうか。

江戸時代の雷研究

ベンジャミン・フランクリンが凧を使った実験を行い、雷が電気であることを証明したのが18世紀半ばのことでした。(参考記事:避雷針を発明したフランクリン
日本でも、江戸時代に洋書が日本に入ってくるのに伴い、雷が電気であることが知られ始めてきました。江戸時代はご存じの通り鎖国されていたのですが、1720年に徳川吉宗の享保の改革の一環で、キリスト教に直接関係のない漢訳洋書が解禁されたのです。そして1770年ごろ、本草学者でもあり戯作者でもある平賀源内が主に見世物としてエレキテルを使って静電気を初めて発生させ、話題になりました。この源内は、1777年に『放屁論後編』で、「雷の理をエレキテルと同じ」と日本で初めて記したといいます。

日本で雷の研究を行ったのは、平賀源内よりも少し後の時代に活躍した、蘭学者の橋本宗吉です。橋本宗吉は、オランダの書物を読み、フランクリンが凧を揚げて雷をライデン瓶に蓄えた実験を再現しました。実際に実験を行ったのは、宗吉の弟子の中喜久太です。

具体的な実験内容はこうです。大きな松の上に松脂をつけた桶を結びつけました。これがフランクリンの行った実験のライデン瓶にあたります。その桶に棒を差し込み、棒の先には針金を長く下げます。そして地面には下に松脂を詰めた箱の台を置きました。そして雷が鳴ると、1人はぶら下がっている針金の端を持って台の上に立ち、もう一人は地面の上に立って、お互いに指を出し合いました。すると、指先から火花が飛んだので、確かに雷は電気であることがわかったというのです。

 
 ▲左(上):橋本宗吉肖像画 右(下):「泉州熊取谷にて、天の火を取る図説」(「阿蘭陀始制エレキテル究理原」挿絵)

橋本宗吉は、医療機器だったエレキテルを実験装置として使い、1811年に出版された『阿蘭陀始制エレキテル究理原』という書物に静電気の説明や静電気の性質を知ることのできる数々の実験を記しました。その功績から、「日本電気学の祖」と呼ばれるようになったのです。

なお、雷の実験に使った松はすでに枯れてしまいましたが、大阪府泉南郡の松のあった場所には「橋本宗吉電気実験の地」の碑が立てられています。

 

日本の避雷針の歴史

やがて、幕末になり、1854年に日本は開国します。そして西洋文化が入ってくるのに伴って、西洋建築が日本に建設されるようになりました。1865年には、フランス人技師の指揮のもと、本格的な造船所である横須賀造船所が建設されました。この造船所の時計台の上には金属の針がついていましたが、これが幕末に建てられた避雷針の一つではないかと考えられています。

明治に入り、日本政府は各地に灯台を作り始めました。この灯台の建設もフランス人やイギリス人の技師の指揮が建設責任者を務めたため、灯台には避雷針が見られます。現存する最も古い避雷針のある灯台は、1870年に建てられた品川灯台です。この灯台は現在は愛知県にある博物館明治村に移築されています。


▲明治村に移築された品川灯台

このように、文明開化とともに、日本の建築物にも避雷針が導入されました。ただ、開国よりも前に、ヨーロッパからの書物によって日本人は避雷針の存在を知っていたようです。1827年に出版された物理学の本である『氣海観瀾』には避雷針に関する記述がありましたし、1834~35年に出版された『遠西医方名物考補遺』では、西洋の避雷針のしくみに触れ、西洋では避雷針を建物や船のマストの上に立てて雷の被害を避けているという知識が記されています。

 

今井明子[気象予報士/サイエンスライター]
Twitter(@imaia78)

 

参考文献:
「江戸から明治の電気」乾昭文・山本充義・川口芳弘
「雷さんと私」宅間 正夫著 三月書房
「広報 あなん」No.695
「文明開化と避雷針」荘田崇人